山手線の電車を見ると、側面の乗降用のドアは、1両あたり片側4つとなっています。山手線に限らず、京浜東北線や中央線、東海道線など、首都圏のJR在来線普通車は、みな4つドアです。
この4つドアの車両が生まれたのは、戦時中の1944年のことでした。鉄道が軍事輸送に追われていた当時、旅客車両の増備が困難となりつつあった中で、工場勤務者の増加などで旅客数は増えつつありました。そのような状況で開発されたのが、63系電車です。この車両は、資材節約や工数削減を重視した「戦時設計」の車両。外板は当時としては薄く、車内も天井の骨組みがむき出しという構造で、「戦争完遂まで耐えられればいい」という思想で開発されました。
ただし63系は、側面ドアを4つに増やしたという、画期的な設計の車両として登場しました。一般的に、ドアの数が増えれば乗降にかかる時間が短縮できるため、輸送力の改善につながります。増加しつつある旅客に対応するため増やされたドア数でしたが、これは63系を改良した72系、国鉄の新性能電車である101系や103系、そして現代の山手線を走るE235系まで、通勤電車の標準スタイルとなりました。
ちなみに、首都圏の電車でも、東海道線や横須賀線、高崎線、常磐線など、中距離を走る路線の車両(いわゆる近郊型車両)は、JR発足初期時点では3つドアが標準でした。これが4つドアとなったのは、1994年デビューのE217系が最初。以降、首都圏の近郊型車両は、山手線や京浜東北線などと同様、4つドアが標準(グリーン車を除く)となっています。
また、63系は国鉄だけでなく、一部の私鉄にも影響を与えました。終戦直後、私鉄各社では、空襲による被害や戦時中の無理を押しての使用により、運用に耐えない車両が大量に存在していました。そこで国は、大手私鉄に63系を渡し、大手私鉄から中小私鉄へ車両を譲渡するよう斡旋。その結果、東武、小田急(当時は東京急行電鉄、いわゆる「大東急」の一部)、名鉄、南海(当時は近鉄の一部)、山陽電気鉄道の5社で、63系が走ることとなりました。
このうち、東武、小田急、名鉄、山陽電気鉄道では、この車両が初めての20メートル級車の導入となりました。各社では、大型化した車両に対応するため、線路設備の改良を実施しており、名鉄を除く各社では、後年の大型車両導入の布石となっています。また、東武、小田急、南海の3社では、この63系割り当て車以降も20メートル級4つドア車を導入し、各社の通勤電車の標準スタイルになりました。戦時中の輸送改善という極限の中で生み出された車両は、JRでも私鉄でも、現代の車両に大きな影響を与えています。