江戸時代における、江戸と京都を結んだ主要ルートは?と聞かれれば、多くの人が「東海道」と答えるのではないでしょうか。現代人の観点では、東海道新幹線や東名高速道路、そして歌川広重の「東海道五十三次」などのイメージから、東海道がメジャーな印象があります。一方、江戸時代の江戸~京都間を結ぶ主要街道には、もう一つ「中山道」が。そして、東京~京阪神間の鉄道メインルートも、当初は中山道ルートでの建設が検討されていました。
東海道や甲州街道などとともに「五街道」に数えられていた中山道は、現代も知られる碓氷峠のような難所はあったものの、橋が架けられていない大井川などの東海道の難所を避けられるため、江戸~京都間の移動には、中山道も多く利用されていました。たとえば、江戸幕府14代将軍の徳川家茂に嫁いだ皇女和宮も、京都から江戸への嫁入りの際には中山道を経由しています。
このため、東京~京阪神間の鉄道建設においても、東海道ルートか中山道ルートか、という議論が生まれました。当初は、東海道筋では江戸時代より宿場町が栄えていることに加え、代替輸送手段もあることから、中山道筋での建設が有力視され、実際にこのルートで工事が始まりました。しかし道中には、先述した碓氷峠などの山越えがあり、建設の困難さや開業後のボトルネックの恐れといった課題が生まれました。結果、東京~京阪神間の鉄道は東海道経由での建設に計画が変更され、現在の東海道本線や東海道新幹線へと至っています。
とはいえ、東海道本線は江戸時代の東海道を完全にトレースしているわけではなく、かつての東海道に近いルートを通る関西本線・草津線は、現在は東西の主要ルートとしては多く活用されていません。岐阜(加納宿)~京都間では、東海道本線や東海道新幹線はかつての中山道に近い場所を経由しており、この区間では当初計画の中山道ルートが実現したといえます。