2023年3月に開業した「相鉄・東急直通線」によって、東急東横線・目黒線に関係する直通各社線のネットワークは大きく広がりました。都営地下鉄三田線もその一つ。ただし、三田線が当初計画通りの姿となっていれば、この直通ネットワークには名を連ねていないはずでした。
三田線は当初、現在の東京メトロ東西線(以下、路線名は全て現在のもの)の分岐線として、下板橋~大手町間の整備計画が持ち上がりました。この時点では営団地下鉄(現在の東京メトロ)の路線として建設される予定でしたが、後に都営地下鉄の路線として建設されることとなり、区間も西馬込~志村間と、現在の三田線に近い形となりました。
東京都では、この時点では三田線のレール幅を1435ミリで建設し、同じレール幅の浅草線と接続させたうえで、馬込の車両基地を浅草線と三田線で共用する計画でした。車両基地は大きな設備投資が必要になるため、一つにまとめた方が効率的だったのです。
しかし1962年、東武と東急が三田線に直通する計画が持ち上がったことで、このプランは狂い始めます。この計画では、東武が大和町(現在の和光市)~志村(現在の高島平)間、東急が泉岳寺~桐ヶ谷(大崎広小路~戸越銀座間の廃駅)間を建設し、東武側は東上線、東急側は池上線経由で大井町線・田園都市線と直通する予定となっていました。これを受けた東京都は、レール幅を東武・東急と同じ1067ミリに変更し、車両基地は三田線用のものを新設することに。三田線として計画された泉岳寺~西馬込間は、浅草線の延伸区間に変更されました。
その直通計画は、東急と東武が相次いで取り止めたことで、最終的に中止に。1968年から順次開業した三田線は、西高島平~三田間の独立路線となってしまいました。この際、元々は東武の路線として建設される予定だった西高島平~高島平間は、三田線として建設されています。
その後、三田線は営団地下鉄南北線とともに東急目黒線へと乗り入れる計画が立てられ、三田~目黒間が延伸開業した結果、三田線は現在知られる形の路線となりました。
1968年の開業当時に投入された6000形のうち、一部の車両では、当時はまだ残っていた東武線直通計画に対応するため、「大和町」や「川越市」といった東武線の駅の方向幕が用意されていました。当初の乗り入れ計画通りであれば、今頃は三田線の車両が、川越や長津田を走っていたのかもしれません。