東京駅といえば、丸の内のオフィス街や皇居に面したレンガ造りの丸の内駅舎が著名ですが、その反対、駅東口の八重洲口も、多くの利用者でにぎわっています。
2000年代以降は再開発が進み、駅と接続するビルは、「鉄道会館ビル」から「グランルーフ」(現:グランスタ東京八重洲)や「グラントウキョウ」に建て替えられました。さらに八重洲口付近では、日本最大級となる予定の「バスターミナル東京八重洲」の整備計画が進行中。鉄道とバス、交通と商業の結節点としての重要性が高まりつつあります。
そんな八重洲口ですが、かつては駅舎が設けられず、設置後もしばらくは「裏口」という扱いでした。
東京駅が開業したのは、1914年のこと。丸の内のレンガ駅舎はこの際に建設されたものですが、当時八重洲側には出入口は設置されませんでした。現在の八重洲口には、駅前に都道405号線「外堀通り」が通っていますが、この道路はかつての「外濠川」を埋め立てたもの。東京駅開業当時、ここはまだ川となっていました。加えて、この場所には「外濠橋」が架けられていたのですが、東京駅開業にあわせて撤去されてしまいます。それからしばらくの間、八重洲と東京駅は近くて遠い存在だったのです。
しかし、当時の八重洲は決して栄えていなかったわけではありません。東京駅開業後、八重洲側に出入口が設置される前の地図を見ると、八重洲側は現在のように建物が立ち並び、路面電車も通っています。加えて、現在も同じですが、日本橋や銀座は八重洲口の徒歩圏内。八重洲側の街は閑散としていたわけではありませんでした。
その八重洲側に出入口ができたのは、1929年のこと。当時は八重洲側に車両基地が広がり、その上を連絡通路が通る設計だったといいます。時代が下り、戦後に入ると、1954年には駅舎に民間商業施設が入居する「民衆駅」(現在の駅ビル)として鉄道会館ビルが竣工。1964年に開業した東海道新幹線のホームは八重洲側に設けられ、八重洲側は丸の内側に劣らない重要な場所となりました。
なお、八重洲という地名は、江戸時代初期に来日したオランダ人のヤン・ヨーステンが屋敷を構えたことが由来です。しかし、行政区分の地名に八重洲という名前が使われるようになったのは、1954年のこと。地名こそ歴史がありますが、地図上で見られるようになったのは、比較的最近のことです。