豊田車両センター所属189系M51編成のラストラン列車が4月27日、廃車回送を兼ねたものとして、豊田~長野間で運転されました。この編成の引退は、首都圏に配置された189系の消滅とともに、一つの時代の終わりも告げるものでした。その時代とは、「国鉄特急色」。1958年の登場以来、国鉄特急、JR特急のイメージカラーとして知られたこの塗装も、M51編成の引退と共に営業線上から姿を消すこととなりました。日本を支えた国鉄特急、その塗装の歴史を振り返ってみましょう。
赤色とクリーム色の組み合わせによる「国鉄特急色」。この塗装が初めて採用されたのは、1958年にデビューした20系(のちの151系・181系)特急型直流電車でした。国鉄初の特急用電車として、また東京~大阪間を6時間台で結ぶ特急「こだま」用として製造された20系は、高速走行を行うための視認性の向上、また高速列車としてのブランドイメージのため、鮮烈な赤とクリーム色の塗装を纏ってデビューしました。
「こだま」の運転開始に遅れること2年の1960年12月には、常磐線経由で上野~青森間を結んでいた特急「はつかり」に、国鉄初となる特急用気動車、キハ80系が導入されます。もちろんこの車両の塗装も国鉄特急色。以降、「サンロクトオ」と呼ばれる1961年10月1日の白紙ダイヤ改正、「ヨンサントオ」と呼ばれる1968年10月1日改正と、大きなダイヤ改正に合わせて全国に広がる特急列車網と合わせ、国鉄特急色も各地に広まっていきました。
盤石であった国鉄特急色の存在が揺らぎ始めたのが、1980年頃の国鉄末期。当時の国鉄はイメージアップを図るため、地域別の塗装を採用し始めていました。これに関連してか、東海道本線の特急「踊り子」などに投入された185系は、白地に緑色という塗装でデビューし、従来の特急車両とは異なる印象を与えました。
また、国鉄民営化以降は、JR各社の独自性追求のため、数多くのオリジナル塗装が登場。さらには新型車両の導入による国鉄型特急車の減少により、国鉄特急色はその数を減らし始めることとなりました。
特急用車両のオリジナル塗装が広まる一方で、かつての姿を再現するリバイバル塗装も、いくつかの編成に対して施されました。数は少ないながらも往年の光景を思い起こさせるリバイバル塗装編成は、ファンからの注目の的でした。
しかしながら、国鉄民営化から早30年。国鉄時代に製造された車両の老朽化は進み、新型車両の投入や列車の廃止などにより、その数を次々と減らしていきます。東日本では2015年3月の特急「北越」の廃止で、西日本でも同年10月の特急「こうのとり」などの車両置き換えで、共に国鉄特急色を纏った車両の定期運用が消滅。臨時列車などの波動用として残された車両も次々とその役目を終え、2018年4月の189系M51編成の引退をもって、国鉄特急色は営業路線上から姿を消すこととなりました。
かつて赤色とクリーム色の国鉄特急色を纏っていた国鉄型車両のうち、現在も活躍を続けているのは、特急「やくも」の381系と、「ムーンライト信州」などで使用される189系などの少数です。今後、各車の引退を前に、かつての塗装へと復元される可能性もゼロではありません。しかしながら、1958年以来60年続いてきた国鉄特急色の歴史は、ひとまず区切りを迎えたこととなります。