2010年の京成成田スカイアクセス線開業により、アクセスが大幅に改善された成田空港。それまでは都心から成田空港までは最速でも約1時間が掛かっていましたが、成田スカイアクセス線経由となったスカイライナーにより、日暮里~空港第2ビル間が最速36分で結ばれるようになりました。
しかしながら、成田スカイアクセス線以前にも、都心と成田空港を約30分で結ぶ路線の計画が立てられていました。2020年現在、着工しながらも計画が消滅した唯一の新幹線である「成田新幹線」です。
幻と消えた成田新幹線
東京駅と成田空港を結ぶ路線として計画された成田新幹線。計画ルートは、東京駅南側から、越中島、葛西、原木、鎌ヶ谷、千葉ニュータウン、印旛沼付近、成田市土屋を経て、成田空港に至るというもの。途中、現在の北総鉄道千葉ニュータウン中央駅付近に、中間駅を設置する計画でした。駅設備は、東京駅と成田空港駅は島式2面4線、中間駅は通過線を配置した相対式2面4線というもの。開業当初の運行本数は1時間あたり5本で、東京~空港間の所要時間は30分程度を想定していました。
国家的プロジェクトである成田空港のアクセス手段として工事が開始された成田新幹線。しかしながら、その構想は暗礁に乗り上げます。
背景にあったのは、当時問題となっていた公害です。東海道新幹線が通る名古屋市の住民が騒音被害を訴え、1974年に新幹線の運行差し止めを請求した「名古屋新幹線訴訟」など、公共インフラといえど住民に対し無条件に騒音などの被害を与え続けることが許されない時代となっていました。
成田新幹線においても、江戸川区議会において建設反対決議が採択されるなど、沿線自治体からの反発が激しく、用地買収は遅々として進みませんでした。1978年の成田空港(当時は新東京国際空港)開港時にも開業の見通しは立っていない段階でした。
結果、成田空港開港後に至っても細々と続けられていた工事は中断。1987年の国鉄民営化と共に建設計画は放棄され、成田新幹線は幻の路線となりました。
今も残る新幹線の痕跡
大部分の工事が進められることなく計画倒れとなった成田新幹線。しかしながら、その痕跡はかつての計画ルート上にいくつか残されています。
始発駅であった東京駅の空間は、現在は京葉線の駅設備として活用されています。とはいっても、現在のホームは京葉線用に新規に建設したもの。成田新幹線用として建設された設備は、東京駅中央部のコンコースと京葉線コンコースを結ぶ連絡通路の一部のみです。
東京駅を出た成田新幹線は、現在の京葉線とほぼ同じルートを進み、トンネルを出た地点で京葉線と分かれます。そこから先は、原木中山駅付近まで、地下鉄東西線の南側を通るルートが計画されました。この東西線と並行するエリアは、最も反対運動が激しかった場所と言われています。一方、用地買収に成功した場所もあり、真間川付近では当時設置された土地境界標が残されています。
また、成田新幹線と交差する予定だった武蔵野線にも痕跡が。西船橋~船橋法典間では、トンネルから出てきた成田新幹線の線路を乗り越すため、武蔵野線側に橋りょうが設けられました。前後の区間はコンクリート製の高架橋となっていることから、この地点に成田新幹線が通る予定であったことがわかります。
白井市から印西市(いずれも現在)の区間は、北総線とともに掘割の中を通る計画でした。中間駅が設置される予定であった千葉ニュータウン中央では、北総線の駅の隣に成田新幹線の駅が建設される予定となっており、現在もスペースが残されています。
この千葉ニュータウンエリアでは、通勤用路線と成田新幹線、高速道路、一般道の4つの構成で東西の動脈を建設する計画でした。このうち、通勤用路線は北総線、高速道路と一般道は国道464号線のバイパスおよび側道として実現しました。計画倒れとなった成田新幹線のスペースは、現在は日本一の長さというメガソーラー発電所となって、その痕跡をとどめています。
工事が進まなかった成田新幹線計画において、唯一大規模な工事が進められたのが、成田市土屋~成田空港間です。JR成田線と交差する部分から、高架線とトンネルを駆使して成田空港へ至る約8.4キロの部分は、現在はJR成田線と京成成田スカイアクセス線が共用しており、それぞれの単線が並行して延びる区間となっています。
工事区間の始点となっていた土屋の高架橋ですが、建設当時から在来線の乗り入れを予定していたことが見て取れます。
1985年、成田新幹線建設中の様子が撮影された航空写真では、現在成田エクスプレスなどが走る成田方面~空港方面のアプローチ線が、すでに建設されていることがわかります。
また、アプローチ線の銘板にも注目。工事着手が昭和53年(1978年)3月2日、竣工が昭和56年(1981年)3月24日と記載されていますが、この期間は土屋~成田空港間の工事期間と一致します。
さらに、銘板の設計荷重には「KS-16」との表記があります。設計荷重とは、高架橋や鉄橋を走行できる車両重量の上限を示したもの。国鉄では、在来線向けの「KS荷重」と、新幹線向けの「NP荷重」の2つを規定していました。このアプローチ線で、新幹線用のNP荷重ではなく在来線用のKS荷重が記載されていることは、建設当時より在来線がこの路盤を使用する想定だったことを暗に示しています。
終点の成田空港駅は、成田新幹線用に建設された駅施設を改築したもの。25メートル級12両編成に対応した島式2面4線のホームを、JRと京成が半分ずつ分け合う形となっています。駅の内装は1991年の在来線開業にあわせて施工されたほか、2010年の成田スカイアクセス線開業にあわせて京成側ホームの延伸・増築が実施されたため、現在の駅設備は成田新幹線建設当時そのものの姿ではありません。
そして高速鉄道計画は復活へ
成田新幹線計画が難航した結果、1978年に開港した成田空港へのアクセスは、京成のスカイライナーのほか、成田駅で特急「あやめ」などと接続する連絡バス、そして東京空港交通の「リムジンバス」に代表される空港連絡バスが担うこととなりました。
しかしながら、現在の東成田駅を発着するスカイライナーは、空港駅から空港ターミナルまでの連絡バスに乗り換えが必要なために利便性は悪い状態。成田駅で特急列車などと接続する連絡バスも乗り換えの手間が嫌われ、多く利用されることはありませんでした。
一方の空港連絡バスも、当時は東関東自動車道の高谷ジャンクション~宮野木ジャンクション間や首都高速湾岸線が開通しておらず、京葉間の交通は首都高速7号線や京葉道路のみが担っている状態。開港当初は比較的スムーズに運行できていましたが、次第にこれら高速道路の渋滞が影響し、定時性に劣るようになっていきました。
この現状を鑑み、運輸省が組織した調査委員会により、1981年に成田空港へのアクセスが再検討されます。この委員会によって、京葉線や現在の北総線を活用し、国鉄が運営する新線(A案)、京成線と北総線を利用する新線(B案)、国鉄線を経由し成田駅から新線を建設(C案)の3案が検討されました。
このうちのB案が本命とされ、B案完成までの暫定整備としてC案も建設が決定。1991年3月にC案となる成田線支線が開業し、同日に空港ターミナル直下へ乗り入れた京成本線とともに、都心と成田空港を結ぶアクセス路線がようやく整備されました。
そして、ターミナル直下への乗り入れ開始から19年後の2010年、成田スカイアクセス線が開業。都心と空港を30分台で結ぶアクセス鉄道が、ようやく完成したのでした。
都心と空港を最速36分で結ぶスカイライナー。かつての新幹線計画と似たルートを通る高速アクセス列車は、成田新幹線の遺志を受け継ぎ、成田空港アクセスの主力として活躍しています。