戦後の貨物線の凋落と、みなとみらいエリアの再開発
しかし、日本が第二次世界大戦に参戦し、敗戦によって終結すると、横浜港もその影響を免れることはできませんでした。
まず、サンフランシスコ航路に接続するボート・トレインは、参戦とともに航路が休止となったため運転取り止めに。横浜港自体も空襲による被害を受けたほか、敗戦後はGHQによって大部分が接収されてしまいました。
GHQの日本進駐や、その後の朝鮮戦争といった場面で軍需輸送に使用された港湾部の路線。新港埠頭が1956年に返還されたことで、現在も米軍管理下にある瑞穂埠頭を除き、戦前の状態に復帰しました。
新港埠頭の返還とともに、ボート・トレインの運転も始まります。戦後は接続航路をサンフランシスコ航路からシアトル航路に変更。現在も横浜港で保存されている「氷川丸」の出入港にあわせて運転されることとなりました。
貨物でも、新たな埠頭の建設にあわせ、ここへ貨物線を建設することが決定されました。新港埠頭や大さん橋の南東側に建設された山下埠頭へは、「山下臨港線」などと呼ばれる貨物線を敷設。横浜港駅から高架で山下埠頭までを結ぶ形で建設され、1965年に開業しました。山下埠頭のさらに東側へ建設された本牧埠頭では、根岸駅から神奈川臨海鉄道の本牧線が、1969年に開業しました。
しかしながら、1960年代に入ると、交通機関に変革の波が押し寄せてきます。
既に1950年代には航空機による国際航空路線が設定されており、船による海外渡航は廃れる一方でした。横浜港のボート・トレインが接続していた氷川丸も、1960年の航海をもって運航を終了。この航海に接続した列車をもって、横浜港のボート・トレインはその役目を終えました。
貨物輸送にも変化が訪れます。戦前は国内貨物輸送で大きなウェイトを占めていた鉄道ですが、戦後はモータリゼーションの進展によってシェアが減少。1950年代をピークに、自動車へとその地位を明け渡していきました。
また、貨物輸送そのものも、従来のばら積みからコンテナ輸送へと変化していきます。歴史ある新港埠頭はばら積み貨物が主体だった一方、戦後に竣工した山下埠頭、大黒埠頭、本牧埠頭はコンテナに対応した施設を持ち、次第に貨物取り扱いの主体はこれらの埠頭へと移っていきました。これにより、新港埠頭の横浜港駅も、次第にその地位が低下していくことになったのです。
戦前から続く横浜港駅は1982年に廃止となり、約70年の歴史に終止符を打ちます。戦後に開通した山下臨港線も1986年に廃止となり、横浜港の鉄道貨物駅は、神奈川臨海鉄道や専用線のものを除き、すべてその役目を終えました。
さて、「日本初、世界最新の都市型循環式ロープウェイ」と謳うYOKOHAMA AIR CABINですが、約30年前にも、この横浜でゴンドラが運行されていたことがありました。
このゴンドラは、1989年の「横浜博覧会」の移動手段のひとつとして建設されたもの。会期中の約半年間のみの運行でしたが、横浜そごうと博覧会「ゴンドラゲート」を結ぶ空中輸送手段として活躍していました。
横浜博覧会では、1986年に廃止された山下臨港線の旅客営業も実施されました。横浜博覧会が臨港線として日本丸~山下公園間を結ぶもので、車両はレトロ調のディーゼルカーを使用。この車両は、会期終了後は三陸鉄道に譲渡され、現在はさらにミャンマーへと渡っています。
このほか、後に愛知県のリニモで実用化されるリニアモーターカー「HSST」の営業運転や、JR東日本が次世代新型車両の方向性を示す車両として制作した、24系「夢空間」の展示など、横浜博覧会は、鉄道に関する内容が数多く含まれるイベントとなっていました。
さて、そんな横浜博覧会の会場となった「みなとみらい」は、1980年代以降の再開発によって生まれた土地です。
もともとは高島線の高島駅や三菱重工横浜造船所があったこのエリア。1960年代より再開発による都心部強化の計画が検討されており、1980年代に再開発がスタートしました。戦前より使われてきた新港埠頭や高島埠頭は、貨物港としての役目を終え、高島埠頭は廃止に。新港埠頭でも、シェアが低下していた横浜港駅が1986年に廃止となり、みなとみらいエリアの貨物線自体も、横浜博覧会臨港線の営業終了とともに完全に廃止となりました。
かつては横浜港の貨物輸送で活躍した貨物線。現在、高島線は鶴見駅と根岸線を結ぶバイパス線となっており、かつて横浜港駅へ伸びていた貨物線跡は、遊歩道「汽車道」として整備されています。