京浜急行電鉄の発祥は、1898年に創立した大師電気鉄道にさかのぼります。同社により初めて開通した区間が川崎町~大師間(約2キロ)で、現在の京急大師線区間中、京急川崎~川崎大師間にほぼ重なります。開業したのは120年前の1899年1月21日。大師線はいわば、京急の歴史の原点といえる路線です。
その大師線で、連続立体交差事業に基づく工事が始まりました。第1期分として、鈴木町駅付近~小島新田間の工事が段階的に進められることとなり、2006年に東門前~小島新田間(約980メートル)の地下化事業が始まりました。
当初は2014年度の完成をめざしていた同区間の工事は、用地買収の難航により完成時期が延長。2019年3月3日に地下線への切り替えが行われました。あわせて、産業道路駅の地下化も完成。同日、供用を開始しました。
今回は、その地下化工事について、産業道路駅を中心にリポートします。
産業道路駅ビフォーアフター
地下化される前の産業道路駅は、小島新田方面のホームの東側に出入口があり、京急川崎方面のホームに出るには、構内踏切を渡る必要がありました。京急川崎行き列車に乗る利用者は、同方面の列車到着間際では、踏切で待機するのが日常でした。
ここからは、地下化の前と後に、ほぼ同じ位置で撮影した産業道路駅の周辺などを紹介します。撮影日は、2月17日(ビフォー)、3月3日(アフター)です。
工事の概要など
京急大師線の川崎大師駅以東の区間は、1944年に延伸。同年のうちに、川崎大師~産業道路~入江崎間が順次開通し、臨港エリアへのアクセス路線としての役割を担うようになりました。1945年に、入江橋~桜本間がさらに開業しましたが、年を追って一部区間で休止や廃止などがあり、残ったのは京浜川崎(当時)~小島新田間に。現在の大師線の区間はこの時に定まりました。1970年11月のことです。
川崎大師~産業道路間は、1925年に全線が開通した海岸電気軌道(当時)の路線の一部にあたり、海岸電気軌道線が1937年に廃止された後、川崎鶴見臨港バスの専用道路となっていたものを改めて軌道として整備した経緯があります。再び線路が敷かれた区間でしたが、その一部にあたる東門前~小島新田間を地下化する工事が始まり、新たな局面を迎えることになったのです。
東門前~小島新田間の工事は、「段階的整備区間」として、2006年2月に着工されました。工区は東門前駅側から順に第1~第4に分けられ、地下線区間の構造は、堀割部、箱型トンネル部、堀割部の順で区割りされました。産業道路駅の地下ホームは、箱型トンネルの中に設けられました。
同区間にある踏切のうち、東門前第2踏切は堀割部にかかることから、踏切道とともに廃止され、東門前第3踏切、産業道路第1・第2踏切の計3か所は、踏切設備が撤去されました。事業の効果としては、交通渋滞、踏切事故、地域分断の3つを解消することが挙げられています。
なお、本事業の策定当初は同線の約9割を地下化する計画で、事業区間は約5キロの予定でしたが、その後の見直しで工区が縮小。第2期分として予定されていた京急川崎~川崎大師間の事業は、2017年に中止が決定しました。残る工事区間は川崎大師~東門前間で、2019年度に着工されます。同区間は、2023年度に地下化される予定です。
3月3日の産業道路駅
地下線への切り替え工事は、3月2日の終電後(3日0時過ぎ)に始まりました。3日は始発から10時ごろまで大師線の列車を運休。10時間に及ぶ工事では、仮設されていた地上部の線路や架線、踏切の撤去、地上へのアクセス部分を覆っていた構造物の除去などが行われました。
列車の運転は同日10時過ぎに再開。信号設備のトラブルにより、緊急点検を行う場面などもありましたが、夕方にはダイヤ通りの運転になりました。
かつての産業道路駅では、こうした光景を撮ることができました(2008年5月撮影)。すでに工事が始まっていたため、仮囲いなどが見えます。10年余りを経て、その工事がひとまず終わり、引き続き駅舎を含む地上部分の整備が行われます。
2020年3月、大師橋駅としての新たなスタート時には、また大きく変わっているでしょう。次はその前後をめどに訪ねてみようと思います。
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