「撮り鉄」の憧れ(?)の鉄道写真家とは
全国に400万人いるといわれている鉄道趣味界の中で、鉄道車両や鉄道に関わる施設や風景などの写真を撮って楽しむ、いわゆる「撮り鉄」の割合は、その半数ほどと聞いたことがあります。
鉄道写真の歴史は古く、本連載の第1回でも触れたとおり、あの徳川慶喜公も撮影したほど。現在のデジタルカメラも高額ですが、慶喜公の当時は写真の機材はとても高価で、限られた人しか持っていなかった時代です。しかし昭和後期に入ってからは高度経済成長の恩恵もあって、カメラは誰もが気軽に購入できるようになり、日本の鉄道趣味界に大きく浸透することになったのは、皆さんもご存じのことだと思います。
そんな鉄道写真ですが、どの業種、どの分野にもプロフェッショナルがいるように、鉄道写真界にも鉄道写真を生業とするプロの鉄道カメラマンや鉄道写真家がいます。鉄道写真を嗜む人が一度は憧れる職業ではないでしょうか。そこで今回の「助川康史の『鉄道写真なんでもゼミナール』」は、いつもと趣向を少し変えて、プロ鉄道カメラマン・鉄道写真家のお仕事などについてお話したいと思います。
ちなみに、今回の内容は私の視点に立ったお話です。プロ鉄道カメラマンや鉄道写真家にも様々な生い立ちや考え方がありますので、その点をご理解の上、楽しく読んでいただけると嬉しいです。
私はどうやってプロ鉄道写真家になったのか
今回のテーマを語る上で、私がどうやってプロ鉄道写真になったのかを知りたい方も多いのではないでしょうか。ということで、少しお話ししたいと思います。
私が鉄道写真を始めたのは、小学2年生の頃です。当時はまだフィルムカメラで、母親のコンパクトカメラを借りて撮影を始めましたが、すぐに父親の持っている一眼レフカメラを借りては、見よう見まねでひたすら撮影していました。ただ、絞りやシャッタースピードなどは全くわかっておらず、適当に撮るばかり。当時はオートフォーカスどころか、露出もオートではないマニュアルカメラでしたから、どう撮影していいのかもわからず、駄作ばかりが出来上がっていました。
ところが、小学4年生のあるときに、人生を決める大きな出会いが。たまたま母と一緒に行った本屋で、「小学館入門百科シリーズ(47)『鉄道写真教室』」という本が目に留まりました。著者は、後の我が師となる鉄道写真の第一人者、真島満秀氏。母に必死にお願いして購入してもらいました。この本が私のプロ鉄道写真家への道筋を作ったきっかけになりました。
小学館「鉄道写真教室」は、小学生向けにしてはかなり高度な鉄道写真撮影の指南書で、絞りやシャッタースピード、さらには美しい鉄道写真の撮り方まで、夢中になって読み返していました。ただ当時は「鉄道写真家に、俺はなる!!」ということもなく、子供のころからの夢は「新幹線の運転士」でした。
一方で、小学生から高校生までは少年野球や野球部に所属しており、土日は練習や試合だったので、鉄道写真を撮影する機会はほとんどなく、ただひたすら白球を追いかける青春時代でした。そのせいと言ってはいけませんが、勉強が苦手な体育会系に成長(笑)。鉄道会社に就職できるほど成績はよくなかったので、運転士の夢は大学生時代にはあきらめてしまいました。
しかし、趣味としての鉄道写真撮影は継続。被写体は鉄道だけに限らず、自然風景やスナップにも挑戦し、さらにカメラ雑誌や他分野の写真の撮影テクニック本など、カメラや写真に関する書籍を色々と読んでは独学で知識を蓄えていきました。その後、いくつか写真コンテストで受賞したこともあり、漠然と「写真家になりたい」と気持ちが芽生え、大学卒業後、あらためて東京ビジュアルアーツの写真学科に入学&卒業しました。
インターンシップも含め、いくつか鉄道写真以外の写真に携わる職業を体験、就職したのですが、やはりしっくりいきません。どうしたものか悩んでいた時に思い出したのがあの「鉄道写真教室」でした。巻頭グラフの後の著者あいさつに、当時の東京・新宿にあった真島満秀写真事務所の住所が記載されていたのです。
住所をもとに電話番号を調べ、意を決して連絡。最初の電話は事務所の人(今の会社の仕事仲間)が出ましたが、日を改めた次の電話のときに、なんと真島満秀氏本人が出たのです。私の思いのたけを必死に熱く語りました。「ならば今すぐ来い!」という言葉を頂き、2時間後には真島氏に会い、次の日から事務所で見習いが始まりました。ちなみに当時師・真島は軽井沢に住んでいて、新宿の事務所に来るのは月に1度か2度。しかも事務所の人が電話対応するので、直接電話に出ることは少なかったそう。偶然が重なったことで、真島満秀写真事務所に通うことが叶いました。
さて、真島満秀写真事務所に入った最初の撮影ですが、仕事ではなく、師・真島から「フィルムは好きなだけやるから東京駅を撮ってこい!」と言われたものでした。後から聞いたのですが、これは撮影の腕と撮影技術、そして感性の有無を見極める試験のようなものだったそうです。車両だけでなく、建物や人、マテリアルなど、東京駅の内外を様々な視点で撮影しました。ある程度撮影してから写真を見せると駄目出しを受け、また撮影に出かけるというのを繰り返すこと3回、師・真島から「お前はなぜ私や先輩たちの写真を勉強してから撮影しようと思わないのだ」と言われました。
東京駅撮影は中断、というか終了。それからは、事務所が時刻表や雑誌、鉄道会社の広告関連などの各媒体に貸し出し、そして返却されたフィルムをフォルダーに戻す作業を、ひたすら繰り返す日々を送りました。この作業は、師や先輩方が撮影した写真を正面から勉強する機会だったので、私の中で「鉄道写真はどう撮ればよいのか」ということが自然と刷り込まれていったのです。
その後一度は退所したものの、約3年後に再び真島満秀写真事務所に戻ることができ、写真整理だけでなく、師の撮影にも同行するようになりました。そこで、撮り方だけでなく、撮影に臨むに当たっての考え方や感じ方も体感し、今の私の撮影スタイル、感覚が形成されていったのです。
そしてある時、師・真島が巻頭グラフを連載していた鉄道専門誌から撮影の依頼をいただきました。取材内容は、房総特急のE257系「わかしお」と「しおさい」の同乗&撮影。誌面ではどんな写真が必要かひたすら思案し、不安だらけで取材に臨みました。今でもその時の緊張感と必死さ、ファインダー越しに見た景色が鮮明に蘇ってきます。これが、私のプロ写真家としての記念すべき第一歩になったのです。