3月21日、富山駅の南北から延びていた路面電車、富山港線と富山軌道線が、いよいよ接続されます。
接続する2路線のうち、富山駅と岩瀬浜駅を結ぶ富山港線は、かつては私鉄の路線として開業しましたが、国鉄、JR、第三セクターを経て、再び私鉄路線となった経歴を持つ路線です。この多くの経歴を持つ路線には、どのような歴史があったのでしょうか。
私鉄路線として開業した富山港線
富山港線の終点である岩瀬浜駅の周辺は、江戸時代から明治初期にかけては、日本海側を巡る「北前船」の寄港地として栄えていました。北前船は鉄道の発達とともに次第に衰退していきましたが、岩瀬はその後も重要港湾としての地位にあり続けました。そして、その岩瀬から富山市街地へ連絡する路線の建設を目指したのが、「富岩(ふがん)鉄道」です。
富岩鉄道は、1924年に富山口~岩瀬浜間を開業。1927年に富山~富山口間を延伸し、富山駅と岩瀬浜を結ぶ、現在の富山港線の原型を形作りました。
ところで、当時の富山には、富山軽便鉄道、富山県営鉄道、越中電気軌道、富山電気鉄道など、多くの鉄道会社が存在していました。そのうちの1つ、富山電気鉄道の創立者である佐伯宗義は、県内の各市街を鉄道路線で結ぶ「一県一市街化」構想という、当時の地方都市としては画期的な計画を持っていました。
この構想を進めるため、富山電気鉄道はまず、1931年に立山鉄道と合併。自社で建設した区間と組み合わせ、富山~滑川間、富山~岩峅寺間を結ぶ路線が誕生しました。そして1943年には陸上交通事業調整法に基づき、県内の民鉄・公営鉄道を全て吸収。社名を改称し、富山地方鉄道となりました。
富山県内の私鉄として事業を営んでいた富岩鉄道もこの流れに呑まれ、富山地方鉄道誕生の2年前となる1941年に富山電気鉄道へ吸収合併。富岩鉄道の路線は富山電気鉄道富岩線となりました。
国有化されるもローカル線に
1943年、富岩線は大変革を迎えます。重要港湾である岩瀬へのアクセス路線となっていた富岩線は、大陸への軍事輸送に資する路線として国有化されることとなったのです。同年1月に富山地方鉄道富岩線となったのもつかの間、6月には鉄道省管轄の富山港線となりました。
戦争遂行のために国有化された富山港線ですが、戦後は大陸への軍事輸送という目的を失い、富山駅から伸びる1ローカル線といった扱いとなりました。富山における港の中心も、1968年には新湊市(当時)へ移り、岩瀬の地位は低下していきます。
戦後、国内各路線で電化が進められ、北陸本線も1969年までに全線が電化されましたが、富山駅を含む田村~糸魚川間は、地方ではコスト面のメリットがある交流電化となりました。一方、私鉄時代に直流で電化されていた富山港線は、国有化後も電化方式が変更されることはありませんでした。そのため、1985年に交直両用の457系が投入されるまでは、全国各地から旧型車両が集められ、運用されていました。
国有化後の富山港線の車両は、各地の買収国電からやってきた車両が主流。1967年の架線電圧昇圧によりこれらの老朽車は一掃されたものの、代替車両は最後の近距離用旧型国電形式である72系でした。JR西日本が宇野線に改造投入したクモハ84形を除くと、富山港線は国内で最後まで72系が使用された路線となっていました。
1985年に72系が置き換えられた後も、富山港線の扱いは良いものではありませんでした。富岩鉄道時代は30分に1本の間隔で運転されていた列車も、末期には定期列車20往復のみ。うち2往復は休日運休となっていました。さらに、2001年にはラッシュ時を除く時間帯の列車に、キハ120形が導入。富山港線は電化路線であるにも関わらず、コスト削減のために気動車が投入されることとなったのです。